2003.11.07-09 海軍兵学校跡 広島 回天記念館

●初日11.07(金)
 名古屋駅へ20時ごろ到着。構内の店でビールとカツドン。\3423-。広島着23時。ニューヒロデンホテルにチェックインしてすぐ近くの広島焼屋さんへ。初めて広島で食べたお好み焼だ。\1800-。セブンでポテチを買ってホテルへ。M君は寝しなにいつもポテチを食べる。健康に悪い・・・。

●2日目11.08(土)
 5時起床。朝風呂に入り、ホテル周辺を散策。広島城跡。勉強不足で興味がイマイチ。朝食後、8時に広島駅前でまさニイと待ち合わせ。M君の知り合い。本日の運転者さんです。あと付けのナビをセットして出発。広島宇品港からフェリーで江田島切串港へ渡る。

【江田島海上自衛隊基地】 第1術科学校、幹部候補生学校の他、対岸にある呉基地に配備されているおおすみ型輸送艦のLCAC訓練施設・整備場、自衛隊貯油場などがある。また、海上自衛隊の特殊部隊「特別警備隊(SBU)」もここに配備されている。

            【左M君。右まさニイ】                           
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            【ハワイ真珠湾攻撃に参加した特殊潜航艇】
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 基地の前身は、日本日本海軍の兵科士官養成機関である【海軍兵学校】である。1888年に東京・築地から江田島に移り、戦前はイギリス海軍のダートマス兵学校、アメリカ海軍のアナポリス兵学校と並び、「世界3大兵学校」と呼ばれた。海軍兵学校の施設のいくつかは現在も第1術科学校や幹部候補生学校で使用されている。
ウィキペディアより。

            【教育参考館】                             
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            【特殊潜航艇海龍】
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 日本は、明治の50年間で小さな島国から世界の一流国にまで躍進した。その物語は、そのまま海軍の歴史であった。 海軍は、日本民族の誇りであった。江田島の海軍兵学校「教育参考館」は、海軍の栄光と 先人の偉業をしのぶ歴史的な資料を収蔵した いわば海軍の聖堂であった。いまは、海上自衛隊にひきつがれ 広く一般にも公開されている。コンクリート造りの建物であり、東郷平八郎、ホレーショ・ネルソン、ジョン・ポール・ジョーンズ、山本五十六の遺髪、海軍将校の書、特攻隊員の遺書など、1万点を超える資料が保存されている。

   ・・・・・車で島を回り広島へ向かう。途中呉で戦艦大和を建造したドッグも見学する。・・・


            【広島平和記念資料館】                        
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            【原爆ドーム】
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 原爆を落とされたことについての深い恨みはない。交戦中のことだから。それが戦争なんだから。もちろん親族知り合いが直接被害にあってないことも大きいんだが・・・・・。記念館にはアメリカ人らしき見学者も多々いる。真剣に見て回っている態度には感心する。彼らの想いはどうなんであろう。出口近くの書き込みノートみたいなものを覗くと、「REMEMBER PARL HARBER」と大きく書いてあるページもる。

 
・・・「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」・・・

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 過ちとは・・・・?

    戦争に勝てなかった過ち・・?
    負けるとわかりながら徹底抗戦した過ち・・?
    対米戦争を始めた過ち・・?
    大陸進出を企てた過ち・・?

    反省することは多々あろう!
    
    誉ある日本国を築こうぞ!

     

 本日の宿は安芸グランドホテル。風呂に入りホテル内の居酒屋で3人で騒ぐ。
 まさニイは夜中に帰る。

●3日目
 食事を済ませ、バスで宮島口へ。対岸に厳島神社を拝んでJR新幹線を乗り継ぎ、徳山港へ。高速船で大津島馬島港へ。

            【魚雷発射場跡】                                 
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            【回天記念館】
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 記念館の前では粛々と式典が行われていた。敗戦濃厚の太平洋戦争末期、国や郷土や愛する人々を守るために、回天特別攻撃隊員として出撃して、その尊い命を散らせていった多くの若者達。

  
・・・・・・・・・・・心よりご冥福をお祈り致します。・・・・・・・・・・・・


【 回 天 】: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

回天一型回天(かいてん)とは、人間が魚雷に乗って直接操舵し、敵艦に体当たりして敵艦を沈めるという兵器。第二次世界大戦中、大日本帝国海軍で特攻兵器として用いられた。人間魚雷、的(てき)、〇六(マルロク)との別称もある。「回天」という名は、「天を回らし、戦局を逆転させる」という願いを込めて名づけられた。

概要
回天は、太平洋戦争開戦以前に甲標的搭乗員であった黒木博司大尉、仁科関夫中尉らが、日米の隔絶した工業力から、日米の艦隊決戦においては有人の水中兵器による敵艦隊撃滅以外に勝利はあり得ないと提唱したことにはじまる。しかし、海軍は当初生還の見込みの無い出撃はあり得ないとして考慮することすらせず、彼らは海軍内で孤立した。戦局が逼迫した1943年(昭和18年)、何度か上申し却下されるのを繰り返した後、1944年(昭和19年)8月正式に兵器として採用された。同年9月山口県の大津島に基地が設けられ、本格的な開発が始まった。回天は水上艦用の酸素魚雷(九三式三型魚雷)を改造したものである。九三式三型魚雷は、直径61センチ、重量2.8トン、炸薬量780キログラム、時速約90キロで疾走する無航跡魚雷であり、主に駆逐艦に搭載された。回天は、これを改造して、全長14.7メートル、直径1メートル、排水量8トンで、魚雷の本体に外筒をかぶせて、一人乗りのスペースと潜望鏡を設けた。炸薬量を1.5トンとして、最高速度時速55キロで23キロメートルの航続力があった。当初突入前に乗員が脱出するハッチがあったが後に廃止された。1944年7月に呉工廠で2基の試作がなされた。搭乗員は潜望鏡で敵艦の位置を確認し潜航操舵、敵艦へ確実に命中させる(突入する)。まさに名前のとおり、戦局を一転させる必殺兵器として開発されたのである。完成後、黒木大尉(黒髪島沖での回天の訓練中の事故により、殉職後少佐)自身も搭乗した。仁科中尉は1944年11月20日、菊水隊としてウルシー環礁で伊47潜より他艇と共に回天で特攻出撃、戦死している。彼の戦果とは特定は出来ていないが米海軍の給油艦ミシシネワが撃沈されている。

海軍の特攻兵器開発
1944年3月、軍令部は,戦局の挽回を図る「特殊奇襲兵器」の試作方針を決定し、次のような 特殊奇襲兵器を緊急に実験、開発するとした。

潜航艇 (特殊潜航艇「甲標的」丁型「蚊龍」)
対空攻撃用兵器
可潜魚雷艇(小型特殊潜水艇「海龍」)
船外機付き衝撃艇(水上特攻艇「震洋」)
自走爆雷
人間魚雷(「回天」)
電探
電探防止
特攻部隊用兵器

 1944年6月、マリアナ沖海戦で敗北した日本海軍は、空母機動部隊の再建を諦めて、特殊奇襲兵器を優先的に開発、準備を決定する。1944年7月、大海指第431号では作戦方針の中で、好機を捕捉して敵艦隊および進攻兵力の撃滅するために敵艦隊を前進根拠地において奇襲する、潜水艦・飛行機・特殊奇襲兵器などによる各種奇襲戦を実施する、局地奇襲兵力を配備し、敵艦隊または敵侵攻部隊の海上撃滅に努める、とした。こうして、軍上層部の主導の下に、人間魚雷「回天」が開発、量産され、特攻隊員の編成や訓練が、組織的に行われるようになる。

 このように、1944年中旬には、軍上層部は、特殊奇襲兵器の名目で、特攻兵器回天を組織的に開発・準備した。決して、黒木博司大尉、仁科関夫中尉など一部の若手士官たちの熱意や自主的な取り組みだけで生まれたものではない。軍隊とは命令で動く硬直的な組織という側面が強く、甲標的搭乗員の創案嘆願が許可されて、人間魚雷を実用化に移したという説には、疑問が残る。現場主導説は、若手士官からの創案として、海軍上層部の主導した回天の開発・特別攻撃隊の編成という責任を回避する目的があるようにも見受けられる。

 1945年1月18日、大本営と政府主要閣僚の集まる最高戦争指導会議(大本営政府連絡会議)において、全軍特攻化が、日本軍の最高戦略となっている。

戦歴
 実戦では潜水艦を母艦として運搬されて運用された。本土決戦では水上艦を母艦としての作戦が計画されていた。軽巡洋艦北上をはじめとして駆逐艦や一等輸送艦が改造された。回天の最初の作戦であるウルシー泊地攻撃では4基が出撃、サイパンに向かう重巡3隻、駆逐艦3隻のため開けられた防潜網から港内の進入に成功した。しかし米軍は真珠湾攻撃の教訓から碇泊中の艦1隻ずつの周囲に球状のブイを並べその下に網をたらして魚雷を防いでいた。このため停泊中の大型タンカー、ミシシネワ号を撃沈するに留まり、残りは標的を探すうちに駆逐艦によって撃沈された。のちに泊地攻撃が米軍の警戒が厳重になったことから、輸送船団を狙うように作戦が変更される。

 潜水艦は敵と遭遇し攻撃を受けた場合、深度を深くとって攻撃を回避することが有効である。伊号潜水艦は100m以上の潜水が可能であったが、回天は最大でも80mの耐圧深度しかなく母艦潜水艦の水中機動は妨げられ、西洋の対Uボート作戦の中で開発された優れた米軍の対潜兵器とあいまって、途中で母艦ごと撃沈される例が多かった。もともと、回天の母体の93式3型魚雷は長時間水中にあることは予定されておらず、魚雷内の燃焼室と気筒に水圧がかかってエンジンが故障してしまい、出撃時には使用不能になっていることもあった。その操縦も至難であり、発進後も必ずしも航走できるとは限らなかった。終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、予備学生など、1,375人であったが、出撃にまでこぎ付けた者は少なく(但し、訓練中に犠牲となった者も少なくなかった)、さらに出撃しても回天の故障によって生還した者もあり、戦没者となったのは106人である。末期には回天を輸送する船舶も払底し、また首尾よく敵艦に向け発進できた「回天」特攻も戦果の定かでないものも少なくない。回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり、それらを含めると145人になる。

 回天の戦果は、撃沈4隻撃破5隻と日本軍が考えていた程には米軍の被害記録がなく、米軍が意図的に戦果を隠蔽していると考える旧軍人も多くいた。日本軍側が認識していた戦果と実際の戦果が乖離していたのには理由がある。日本軍側は潜水艦の聴音による爆発音の確認で戦果を認識していた。ところが、魚雷とは違い、方向転換のたびに潜望鏡を上げ、低速航行を行う必要がある回天は、敵に認識されやすく、砲撃で容易に爆沈された(この場合、回天の爆発音がするため、日本軍側は戦果と認識する)。また 回天は本来直進を基本とした魚雷が出自であるため、旋回半径が大きく、なおかつ回天側面と敵艦船とが衝突する事態を考慮していなかった。ところが実戦では、大回りの回天が小回りで回避運動を行う敵艦船を追跡した結果、敵艦船に回天の側面が衝突した場合が多かった。この場合、回天の信管は作動しない。このため、衝突してから数秒以上後に、搭乗員が内部から爆薬を起動させ爆発させたと思われる例が多かった。そういった場合、回天と敵艦船との距離は、既に離れているため、大した被害は与えられなかった。


回天戦の戦果
回天の総合戦果は、戦後の「回天会」の調査などにより、以下が確実視される他、別に通常魚雷の戦果にまぎれた数隻が存在すると考えられている。

19.11.20 給油艦ミシシネワ撃沈
20.01.12 輸送艦ポンタス・ロス小破
20.01.12 歩兵揚陸艇LCI-600撃沈
20.01.12 弾薬輸送艦マザマ大破
20.04.27 輸送艦カナダ・ビクトリー撃沈
20.04.27 輸送艦ボーズマン小破
20.05.02 輸送艦カリーナ小破
20.05.27 駆逐艦ギリガン大破
20.07.24 駆逐艦アンダーヒル撃沈
20.07.24 駆逐艦R・V・ジョンソン小破
20.07.28 駆逐艦ロウリー小破
20.08.?? 駆逐艦トーマス・ニッケル小破

「回天」の基地
「回天」の訓練基地として山口県周南市の徳山湾に浮かぶ大津島が知られている。大津島の一番南、元は別の島だったものの、400年くらい前につながってひとつの島になった馬島に、戦時中は、回天の組立工場とそれを海に下ろすためのエプロン2ヵ所と島の裏側に発射練習基地があった。工場は、戦後進駐軍により壊され、そこに現在の大津島小学校・中学校(旧 馬島小学校)がある。島の反対側までトンネルがあり、その先に発射練習基地があった。練習のコースは、大津島の徳山湾の東にあたる内海側から黒髪島方面に発射して戻ってくる第一コース、やはり内海側から発射して、馬島を周回して外海側の発射練習基地に戻る第二コース、内海側から発射して大津島を北上し、島の西を回って、外海側の発射練習基地に戻る第三コースがあった。
 大津島の基地は、まもなく手狭になり、同じ山口県内の周防灘側の光と平生にも基地が設けられ、さらに大分県速見郡日出町大神にも基地が設けられた。大津島を含めて、4ヵ所に基地があったことになる。回天の出撃は、大半が大津島基地からで14回、他に光から12回、平生から2回である。現在は、高台の旧馬島小学校の跡地に1968年(昭和43年)に建てられた回天記念館と回天碑、鐘楼がある。門から記念館までのアプローチには、それぞれの戦没者の名を刻んだ烈士石碑が並んでいる。初代館長は、高松工(たくみ)である。現在は周南市教育委員会が管理運営している。
 なお、以前の展示品などは、回天記念館と同じ住所の休憩所「養浩館」に展示されている。そちらでは生々しい体験談を聞くことが出来る。 発射練習基地はそのほとんどが破壊され、大方の輪郭のみ残っているものの一部老朽化が進み、立ち入り禁止になっている。通称「ケイソン」と呼ばれている。

基地回天隊
回天を搭載する大型潜水艦が次々と失われたこと、また回天は本土沿岸の防衛にも効果的であると判断されたことから、日本本土の沿岸に回天を配備する「基地回天隊」が組織された。第一回天隊8基および搭乗員、整備員、基地員の全127名は1945年3月に第十八号一等輸送艦で沖縄に向け進出したが、同18日に沖縄本島北西の粟国島付近で米潜水艦「スプリンガー」に撃沈され全滅した。第二 回天隊8基は1945年5月に伊豆諸島の八丈島の2ヶ所の収容壕に配備され、敵艦隊の接近を待ったが、出撃する機会なく終戦を迎えた。その後米軍命令で壕ごと爆破処理されたが、現在は壕は発掘され説明看板が立てられている。そのほか第三・第五・第八・第九回天隊は宮崎県、第四・第六・第七回天隊は高知県、第十一回天隊は愛媛県、第十二回天隊は千葉県、第十六回天隊は和歌山県に配備された。

出撃
1944年11月8日に菊水隊として、ウルシー、パラオ方面に初出撃して以降1945年8月まで、金剛隊、千早隊、神武隊、多々良隊、天武隊、振武隊、轟隊、多聞隊、神州隊ののべ28隊(潜水艦32隻、回天148基 途中帰投含む)の出撃が行われている。同一の隊が、複数回の出撃を行っていたり、○○隊などは呼称であるためこのような数字になる。最初の菊水隊のみが1回限りの出撃である。目的地は、ニューギニアからマリアナ諸島、沖縄にかけてである。

搭載母艦は以下の通り。
菊水隊、伊三六潜、伊三七潜、伊四七潜(1944年11月8日出撃)。
金剛隊、伊五六潜、伊四七潜、伊三六潜、伊五三潜、伊五八潜、伊四八潜(1944年12月1日~1945年1月9日出撃)。
千早隊、伊三六八潜、伊三七○潜、伊四四潜(1945年2月20日、21日、22日出撃)
神武隊、伊五八潜、伊三六潜(1945年3月1日、2日出撃)
多々良隊、伊四七潜、伊五六潜、伊五八潜、伊四四潜(1945年3月28日~4月3日出撃)
天武隊、伊四七潜、伊三六潜(1945年4月20日、22日出撃)
振武隊、伊三六七潜(1945年5月5日出撃)
轟隊、伊三六一潜、伊三六三潜、伊三六潜、伊一六五潜(1945年5月24日~6月15日出撃)
多聞隊、伊五三潜、伊五八潜、伊四七潜、伊三六七潜、伊三六六潜、伊三六三潜(1945年7月14日~8月8日出撃)



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