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help リーダーに追加 RSS '08.04.27 神戸城址 神戸信孝

<<   作成日時 : 2008/04/29 06:32   >>

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 ゴールデンウイークが始まった(私にとってただの日曜日であるが)。東名阪で鈴鹿に向かう。目標は神戸高校。

【神戸城址】
 神戸氏4代の神戸具盛が天文年間(1532年 - 1555年)に築城し、本拠地を澤城(神戸西城)から移した。その後、織田信長の3男神戸信孝により、より強固に修築された。城主は度々代わり、関ヶ原の戦い以降は一柳氏が5万石で入った。
 その後一時期天領となった時期もあったが、1650年、石川総長が1万石で当地に封じられた。享保17年(1732年)には本多忠統が2万石で封じられ、城を修築し入城した。以降明治維新まで、本多氏7代が居城として用いた。

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 本丸には野面積みの天守台があり、かつては神戸信孝により5重6階の天守が築かれ、北東に小天守と南西に付櫓がある複合天守であったことが確認されている。天守は1595年に解体され、桑名城に移築され神戸櫓と呼ばれた。現在城の中心部は神戸公園となり、二の丸跡には、三重県立神戸高等学校が建てられている。

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【神戸信孝】
 1558年、 織田信長の三男として生まれる。母は側室の坂氏。幼名は三七と言われる。実は次男信雄より数日先に生まれたが、母の身分が低く、また信長に報告するのが遅かったため、三男とされたと言われる。しかし坂氏は北伊勢随一の豪族関氏の庶流鹿伏兎氏の庶流にあたり、けっして生駒氏に見劣りする出自ではない。本来兄の信孝が信雄よりも信長亡き後の織田家一門の筆頭に相応しいという正嫡性の強調のため、あるいは兄である信雄に逆らったことを正当化するための意図的な創作話ではないかといわれ、実際は信孝が信雄より後に生まれたのではないかといわれる。また、信孝誕生を1558年4月4日とする説もある。生まれた場所は母方大叔父と言われる家臣の岡本良勝の屋敷とされている。
 1568年、信長が伊勢国を平定した際に、降伏した神戸城主・神戸具盛の養子となり、1572年に神戸氏を継ぐ。 相続後は神戸検地と呼ばれる検地を行い、城下に楽市楽座、伝馬制を敷くなど領地経営に力を注ぎ、神戸は伊勢参宮街道の宿場として大いに栄えた。
 1574年から1575年にかけて、伊勢長島一向一揆平定戦、越前一向一揆平定戦に参加する。1577年の紀州征伐、1578年には荒木村重討伐戦にも出陣している。行政官としての活動もあり、1580年には村井貞勝を補佐して在京し禁裏との交渉にあたった。同年7月、本願寺教如が退去するに際して誓詞を交わすため、信長を京に迎えている。このころか丹波、丹後を所領として与えられたようであり、丹波衆、丹後衆に出した中国攻めの触書が存在する。同時に伊勢では神戸城の拡張工事に着手、五層の天守閣や多数の櫓を持つ近世城郭を完成させた。
 1582年に四国征伐の総司令官に任ぜられ(四国征伐は信孝の強い希望によって実現したともいう)、織田氏の宿老・丹羽長秀や従兄弟の津田信澄らを付された。なお、四国征伐にあたって、信孝は三好康長の養子になることが決定され、神戸具盛は再度神戸氏の当主扱いになったようである。
 堺にて渡海の準備中である6月2日に本能寺の変が勃発し、逃亡兵が相次いだため、積極的な行動はできず、かろうじて明智光秀の娘婿である従兄弟の津田信澄を殺害した程度であった(しかし信澄が本能寺の変に加担した証拠は存在しない)。その後、摂津国富田で「中国大返し」後の羽柴秀吉軍に合流、名目上は総大将として山崎の戦いに参戦し、仇である明智光秀を撃破した。
 清洲会議では信長の弔い合戦の総大将であったにも関わらず、織田氏の後継者は甥の三法師に決まる。信孝は三法師の後見役として兄・信忠の領地であった美濃国を与えられ、岐阜城主となる。その後、秀吉と対立する柴田勝家に接近し、勝家と叔母のお市の方との婚儀を仲介した。こうして織田氏宿老格の柴田勝家・滝川一益らと結び、同年12月、三法師を擁し秀吉に対して挙兵する。しかしこの挙兵は秀吉の迅速な行動によって降伏せざるを得なくなり、人質を出して三法師を秀吉に引き渡した。
 1583年、賤ヶ岳の戦いが起きると、信孝は再度挙兵する。しかし兄・信雄によって同年4月に居城の岐阜城を包囲され、頼みの勝家も北ノ庄城で自害すると、岐阜城を開城して秀吉に降伏した。信孝は尾張国知多郡野間(愛知県美浜町)の大御堂寺(野間大坊、平安時代末に源義朝が暗殺された場所)に送られ、自害した。享年26。命日は4月29日(西暦6月19日)と5月2日(6月21日)の二説がある。辞世の句は「昔より 主を討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」(信孝の秀吉への激しい怒りが感じられる句である)。しかしたしなみある武将の信孝が、このような稚拙で露骨な辞世の句を残したとは考えにくく、この辞世の句が信孝の残したものかどうかは疑問である。切腹の際に怒りのあまり臓物をなげつけたという説もあるが、医学的検証からそのようなことは不可能であること、腹に刀をいれたとたん介錯するという作法があることから、そういった逸話とともに創作された辞世の句か落首の類とも考えられる。

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